リア充≒非リア(その生活スタイルの価値において的な意味で)

リア充的生活にはリア充的生活の良さ*1が、非リア的生活には非リア的生活の良さ*2があるわけで、決してその生活スタイルの価値において、リア充>非リアでは無いと思います。確かに、コミュニケーション重力下における位置エネルギーの高低という点では、リア充が非リアよりも高みに位置しているでしょうが、しかし、それを言えば、コミュニケーションの欠落からの忍耐力と言う点においては非リア>リア充である、という逆の観点もあるわけで*3、一概にリア>非リアだとは言えないわけです。そもそも、コミュニケーションがその生活スタイルの価値決定において重要な意味を持つとは思えません。「社会で生きてく以上コミュ力は高ければ高いほど良い!だからリア充のほうが良い!」という意見には、僕は安易に賛成できないのです。コミュ力なんてのは、他人と会話できるだけの必要最低限のものが備わってれば問題ないと思います。社会でのサバイブにはコミュ力なんかよりも、個々人の能力のほうが10倍100倍大切なのではないでしょうか(実際に会社の人事とかから言わせたら意見は違うのかもしれませんが)。黙ってたって、有能な人間は社会で必要とされるはずです*4

*1:人間関係の楽しさや恋愛など

*2:人間関係の煩わしさからの回避や自己実現のために黙々と努力する時間の確保など。ただしこういう生活スタイルはそれをエンジョイしている人間にとってはむしろ充実しているので、「非リア」という言い方はふさわしくないのかもしれません。

*3:ただ、それは非リアである彼が本当に人間関係の欠落に耐えられていることが大前提になるわけですが。もしそうでなかったら、ただの酸っぱい葡萄的非リアという最も惨めな状況になりかねません。大生板で無根拠に(正確に言えばルサンチマンのみを根拠にして)リア充叩きをしているような人間は間違いなく後者でしょう

*4:ちなみにここではこの日記を書いてる僕自身が社会に必要とされないであろう無能人間であるという事実は無視します。あしからず。