「真・リア充」と「あえてのぼっち」

キョロ充」なる言葉が板を賑わせている今日この頃、いかがお過ごしでしょうか。この新生語は、他人との付き合いに過剰に依存するあまり、教室に一人でいる時さえ知り合いを求めてキョロキョロしてしまうリア充を揶揄した言葉なわけですが、もちろんリア充全員がキョロ充であるわけではありません。むしろ「キョロ充」なる語は、繋がりを常に求めていないとそれがすぐに切れてしまいそうで落ち着かない、そんな人間関係しか持てないような、云わばリア充として中途半端な大学生を指す言葉とされているようです。ちゃんとしたリア充は、コミュニティの保持に怯えなくとも確固とした人間関係を築けているため、教室でキョロキョロする必要もないからです。つまりリア充の中にも2種類のタイプ分けがあって、所謂ちゃんとしたリア充「真・リア充」と、中途半端な「キョロ充」がいるということです。
ではぼっちはどうなんでしょうか。リア充が一種類で無いように、ぼっちも一種類ではないと思います。大生板内で一般的に「ぼっち」(あるいは非リア)と呼ばれているような人間(コミュ力などの対人関係に必要なスペックが足りないためにリア充になれない人間)の他に、スペックが十分足りているにもかかわらず、あえてぼっちを選択しているような人間もいるからです。一昨日の日記(http://d.hatena.ne.jp/Maximum-Makisima/20071201/1196525888)に書いたように、非リアぼっちの生活スタイルにもメリットがあります。そのメリットとは、煩わしい人間関係に裂く時間を減らし、代わりにその時間を自分のために使えるという点です。この時間の有効性に気づき、自己実現のために役立ててている人間、それが「あえてのぼっち」です*1
さらに言うと、「真・リア充」と「あえてのぼっち」はタイプ的に同じような人間だと思います。「真・リア充」は確かにリア充ですが、別に人間関係にそこまで依存しているわけではなく、にもかかわらず彼個人の魅力によって、自然発生的に人間関係が構築されていくからです。「あえてのぼっち」も、ぼっちとは言いますが、その一人の時間で養った能力が社会的に認められたとき、彼は確固とした地位を認められるでしょう*2人間関係に拠らなくとも、個人の能力魅力によってその地位を確立している、という点において、極論を恐れずに言えば、真・リア充=あえてのぼっちなのかもしれません。

【参考】http://blog.livedoor.jp/inugakuseikatuita/archives/51413110.html

*1:ちなみに、僕のように人間関係に使わなかった(というか使えなかった)時間を2ch等、非生産的なコトに浪費しているような人間は「ダメでクズでゴミなぼっち」です。

*2:過去の数多の偉人がそうであったように