便器で用すら足せない童貞たち

非処女は肉便器」は大学生活板では非処女バッシングの決まり文句として、かなり前から定着しています。まあ要するに童貞のルサンチマンを端的に表した言葉なんですが、この文句は、かつて大生板の伝説の三大コテハン*1の一人であったプラモヂル氏が言い出したのが発祥です。当初はある意味、ネタ色が強い物言いでしたが、それが年月を経て、いつの間にか童貞の自己肯定のためのツールとしてベタに消費されるようになってきた、というのが昨今までの流れだと思います。
別に童貞非童貞関係なく、処女を好む男性が少なからずいるのは事実なのかもしれませんが、大生板に限っては、この言葉を積極的に使っているのは9割方が童貞でしょう。板の中では定期的に処女非処女論議が行われますが、その際に非処女肯定側から「非処女叩いてるのって、結局童貞でしょ?」と言われた時、それに対して処女崇拝の側から反論が出なかったり、反論だと思ったらただの見苦しい言い訳に過ぎなかったり、ネットだからバレないと思って「いや、俺非童貞だし」と言った童貞が踏み絵をされて化けの皮をはがされるといった事態は、その手のスレにおいて毎回のように散見されます。
便器便器と言いながらその便器で用も足せない我々童貞たちは、オナニーという名のオムツを履きながらルサンチマンを発露させ、今日も大生板を盛り上げてゆくのでした。ちゃんちゃん。

*1:2002〜03年あたりの大生板黎明期を台頭していた、ホットカルピスネオパソプラモヂルの3人の固定ハンドルのこと。ホッカルとネオパソは20代も後半のくせに今でも板にいますがどう見ても基地外です本当にありがとうございました。この2人に比べたらモヂル氏はかなりの常識人だと思います。

「真・リア充」と「あえてのぼっち」

キョロ充」なる言葉が板を賑わせている今日この頃、いかがお過ごしでしょうか。この新生語は、他人との付き合いに過剰に依存するあまり、教室に一人でいる時さえ知り合いを求めてキョロキョロしてしまうリア充を揶揄した言葉なわけですが、もちろんリア充全員がキョロ充であるわけではありません。むしろ「キョロ充」なる語は、繋がりを常に求めていないとそれがすぐに切れてしまいそうで落ち着かない、そんな人間関係しか持てないような、云わばリア充として中途半端な大学生を指す言葉とされているようです。ちゃんとしたリア充は、コミュニティの保持に怯えなくとも確固とした人間関係を築けているため、教室でキョロキョロする必要もないからです。つまりリア充の中にも2種類のタイプ分けがあって、所謂ちゃんとしたリア充「真・リア充」と、中途半端な「キョロ充」がいるということです。
ではぼっちはどうなんでしょうか。リア充が一種類で無いように、ぼっちも一種類ではないと思います。大生板内で一般的に「ぼっち」(あるいは非リア)と呼ばれているような人間(コミュ力などの対人関係に必要なスペックが足りないためにリア充になれない人間)の他に、スペックが十分足りているにもかかわらず、あえてぼっちを選択しているような人間もいるからです。一昨日の日記(http://d.hatena.ne.jp/Maximum-Makisima/20071201/1196525888)に書いたように、非リアぼっちの生活スタイルにもメリットがあります。そのメリットとは、煩わしい人間関係に裂く時間を減らし、代わりにその時間を自分のために使えるという点です。この時間の有効性に気づき、自己実現のために役立ててている人間、それが「あえてのぼっち」です*1
さらに言うと、「真・リア充」と「あえてのぼっち」はタイプ的に同じような人間だと思います。「真・リア充」は確かにリア充ですが、別に人間関係にそこまで依存しているわけではなく、にもかかわらず彼個人の魅力によって、自然発生的に人間関係が構築されていくからです。「あえてのぼっち」も、ぼっちとは言いますが、その一人の時間で養った能力が社会的に認められたとき、彼は確固とした地位を認められるでしょう*2人間関係に拠らなくとも、個人の能力魅力によってその地位を確立している、という点において、極論を恐れずに言えば、真・リア充=あえてのぼっちなのかもしれません。

【参考】http://blog.livedoor.jp/inugakuseikatuita/archives/51413110.html

*1:ちなみに、僕のように人間関係に使わなかった(というか使えなかった)時間を2ch等、非生産的なコトに浪費しているような人間は「ダメでクズでゴミなぼっち」です。

*2:過去の数多の偉人がそうであったように

今時アキバでもこんな格好珍しいわ

やっぱパンパンに膨らませたリュックがストリートって感じで一番カッコイイよな!
それに20回程洗って色落ちした丈の短いブルージーンズに派手なネルシャツをインして合わせればいい感じになる!
足元は紳士に真っ白い靴下、靴は機能性を重視し、ニューバランスの運動靴。

これでナンパしたら本気で警察呼ばれたからみんなもやってみな!

リア充≒非リア(その生活スタイルの価値において的な意味で)

リア充的生活にはリア充的生活の良さ*1が、非リア的生活には非リア的生活の良さ*2があるわけで、決してその生活スタイルの価値において、リア充>非リアでは無いと思います。確かに、コミュニケーション重力下における位置エネルギーの高低という点では、リア充が非リアよりも高みに位置しているでしょうが、しかし、それを言えば、コミュニケーションの欠落からの忍耐力と言う点においては非リア>リア充である、という逆の観点もあるわけで*3、一概にリア>非リアだとは言えないわけです。そもそも、コミュニケーションがその生活スタイルの価値決定において重要な意味を持つとは思えません。「社会で生きてく以上コミュ力は高ければ高いほど良い!だからリア充のほうが良い!」という意見には、僕は安易に賛成できないのです。コミュ力なんてのは、他人と会話できるだけの必要最低限のものが備わってれば問題ないと思います。社会でのサバイブにはコミュ力なんかよりも、個々人の能力のほうが10倍100倍大切なのではないでしょうか(実際に会社の人事とかから言わせたら意見は違うのかもしれませんが)。黙ってたって、有能な人間は社会で必要とされるはずです*4

*1:人間関係の楽しさや恋愛など

*2:人間関係の煩わしさからの回避や自己実現のために黙々と努力する時間の確保など。ただしこういう生活スタイルはそれをエンジョイしている人間にとってはむしろ充実しているので、「非リア」という言い方はふさわしくないのかもしれません。

*3:ただ、それは非リアである彼が本当に人間関係の欠落に耐えられていることが大前提になるわけですが。もしそうでなかったら、ただの酸っぱい葡萄的非リアという最も惨めな状況になりかねません。大生板で無根拠に(正確に言えばルサンチマンのみを根拠にして)リア充叩きをしているような人間は間違いなく後者でしょう

*4:ちなみにここではこの日記を書いてる僕自身が社会に必要とされないであろう無能人間であるという事実は無視します。あしからず。